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東京地方裁判所 平成5年(ワ)13331号 判決 1996年5月15日

原告

大橋芙枝子

外三名

右四名訴訟代理人弁護士

服部昌明

萱場健一郎

村山永

池田和郎

右訴訟復代理人弁護士

柏田芳徳

岡野將太郎

被告

国家公務員等共済組合連合会

右代表者理事長

古橋源六郎

右訴訟代理人弁護士

平沼高明

堀井敬一

木ノ元直樹

加藤愼

永井幸寿

右訴訟復代理人弁護士

小西貞行

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告大橋芙枝子に対し、金八八七七万四五〇〇円、同山際衿子、同大橋宏顕、同大橋直子に対し、それぞれ金三一二五万八一六〇円及びこれらに対する平成五年七月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、亡大橋文夫(以下「文夫」という。)が被告の病院に入院し、膀胱腫瘍、S状結腸切除等の手術を受けた後、被告の過失によりMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)(以下「MRSA」という。)感染症に罹患し、最終的には肺炎及び脳梗塞で死亡したとして、文夫の相続人である原告らが、被告に対し、診療契約上の債務不履行を理由として損害賠償を請求した事案であり、原告らが主張する損害の内訳は次のとおりである。

1  逸失利益 合計一億〇九〇〇万四〇〇〇円

文夫の死亡時の年収一九六〇万円に死亡時から六七歳に至るまでの就労可能年数一〇年に対応するホフマン係数を乗じ、生活費として三割を控除して、ホフマン方式により文夫の死亡時の原価に換算したものであり、このうち、文夫の妻である原告大橋芙枝子(以下「原告芙枝子」という。)が二分の一の相続分五四五〇万二〇〇〇円、文夫の子である同山際衿子(旧姓大橋)(以下「原告衿子」という。)、原告大橋宏顕(以下「原告宏顕」という。)、原告大橋直子(以下「原告直子」という。)が各六分の一の相続分一八一六万七三三〇円を取得した。

2  慰謝料 文夫について三〇〇〇万円

原告らは相続分に応じてこれを相続した。

固有の慰謝料として、原告芙枝子について一〇〇〇万円、同衿子、同宏顕、同直子について各五〇〇万円

3  葬儀代 合計七一〇万円

原告らは相続分に応じてこれを負担した。

4  弁護士費用 合計一一四四万五〇〇〇円

原告らは相続分に応じてこれを相続した。

二  争いのない事実等(証拠の記載がなければ争いのない事実である。)

1  文夫は、昭和九年一二月三日生まれで、平成四年五月七日死亡当時五七歳であり、その直前まで日商岩井株式会社に勤務し、鉄鋼貿易関係の担当の取締役として職務に従事していた。

原告芙枝子は、文夫の妻であり、同衿子、同宏顕、同直子は、それぞれ文夫の子である(以上、甲二の1ないし7、一四、原告芙枝子本人)。

被告は、東京都港区虎ノ門二丁目二番二号において「虎の門病院」(以下「本院」という。)、川崎市高津区梶ケ谷一丁目三番一号において「虎の門病院分院」(以下「分院」という。)(なお、本院、分院を総称する場合には、以下「被告病院」という。)を開設経営している法人である。

葛原敬八郎(以下「葛原医師」という。)は、当時被告病院の医師(腎センター医長)であり、文夫の診療を担当していた。

2  被告は、文夫との間で、平成四年二月二四日、文夫が分院に入院するに際し、被告がその医療水準に相応しい債務の履行をなすべきことを内容とする診療契約を締結した(以下「本件診療契約」という。)。

3  文夫の死亡に至る経緯

(一) 文夫は、平成四年一月下旬、血尿が出たので虎ノ門診療所を受診し、膀胱腫瘍(膀胱癌)を疑われ、右診療所笠井医師の紹介で、同年二月一日、本院腎センター外来を受診し、さらに、同月五日以降、数回にわたり、本院又は分院で検査等を受け、膀胱癌であることが判明した。当初から、葛原医師が文夫の担当医師であった。

(二) 文夫は、平成四年二月二四日、分院腎センターに入院した(部屋は一号棟一階一〇九号室。なお、この時二号棟は完成していなかった。)。担当医師は葛原医師のほか、大坪医師、柳沢医師であった。葛原医師から原告芙枝子に対し、同年三月九日に膀胱手術をする予定であることが伝えられた。

文夫について、同月二五日、腎臓CT検査、膀胱造影が、同月二六日、膀胱鏡検査、膀胱造影所見が、同月二七日、膀胱部CT検査が、同年三月三日、上部消化管内視鏡検査が、同月五日、注腸検査が、それぞれなされ、直腸に近いS状結腸に直径二二ミリメートルの表面不整の隆起病変があり、S状結腸の早期癌であると診断された。そこで、同月九日に予定していた手術を延期し、同月一〇日に下部消化管内視鏡検査を施行することになった(以上、乙二、一二)。

(三) 平成四年三月一〇日、本院で下部消化器内視鏡検査がなされ、S状結腸の腫瘍部分を三箇所生検した。検査後、文夫はタクシーで自宅に帰宅したところ、血便があり、午後五時すぎ分院に戻り、止血剤を加えた点滴輸血を開始した。同月一一日午前八時三〇分ころ、一〇二号室に転床し、緊急輸血をした。同日午後一時三〇分、レントゲン室で本院消化器医師により緊急止血のため下部消化器内視鏡を施行して出血部分をクリップで止血した。

この日から同月一六日まで絶食とし、経管栄養を施行した。

同月一八日、原告は、病室を新棟である二号棟二階の二五四号室に移った(以上、甲一四、乙二、一二)。

(四) 葛原医師及び沢田医師(消化器科外科)らは、平成四年三月二三日、①S状結腸切除、②TUR(tran-surethral resection・経尿道的切除術)による膀胱腫瘍切除、③膀胱の生検を行った(以下「本件手術」という。)のであるが、同日午前九時三〇分ころから腹部手術が開始され(沢田医師が担当)、続いて午前一一時五〇分ころから膀胱手術が開始され(葛原医師が担当)、午後二時ころに手術が終了した。

被告の麻酔科担当医師は、平成四年三月二三日、本件手術の直前である午前八時ころ、手術室において右内頸静脈にIVH(intravenous hyper-alimentation・経中心静脈高カロリー輸液)カテーテルを挿入し留置した。文夫はS状結腸の手術・縫合をし、その中を食物残渣が通過すると創の離解が生じるうるために手術後一週間絶食となり、その結果IVHカテーテルを用いることになったものである。

文夫は、同日から同月二九日まで、毎日二グラム、抗生剤であるセフォチアム(CTM)の投与を受けた。右投与については、葛原医師が沢田医師と相談の上で選択施行した(以上、乙二、一二、証人葛原敬八郎)。

(五) 文夫は、平成四年四月一日、病室を二号棟二階二五四号室から同棟三階三五二号室に移されたが、同日から悪寒を伴って約三九度の高熱となった。同日、静脈血を採血して血液培養をし、また、発熱の原因がIVHカテーテルにあると考えられるため、同月二日午前一〇時二〇分ころ葛原医師がIVHカテーテルを抜去し(その際カテーテルの外に血栓は認められなかった。)、IVHカテーテル先端部分を培養した結果、同月三日夜になっていずれからもMRSAが検出され、MRSA感染症に罹患していることが確認され、同月七日から、文夫の病室が隔離部屋とされた。

なお、菌検査は、本件手術以前には実施されていない(以上、甲三、乙二、証人葛原)。

(六) MRSA感染症に罹患していることが確認された後における抗生剤の投与状況は次のとおりである。

平成四年四月三日、チェナム投与が開始された(一日二回、一回当たり0.5グラム)。

同月四日、バンコマイシン投与が開始された(一日二回、一回当たり0.5グラム)。

同月六日、バンコマイシンの投与量が増量された(一日二回、一回当たり一グラム)。

同月七日、バンコマイシンの投与量が減量された。

同月一六日、ハベカシンの投与が開始された(一日一回、一回当たり0.2グラム)。

MRSA感染症に罹患していることが確認された後における文夫の病状については、平成四年四月九日、脳梗塞症等が疑われ、同月一〇日、心臓内膜炎が疑われ、同月一一日、多発性脳梗塞と認められ、同月一三日、肺炎が疑われて人工呼吸器による調節呼吸を開始した(乙二、一二)。

(七) 本件手術後の白血球数等の検査での数値は次のとおりである(乙二)。

(1) 赤沈(正常値〇ないし一〇)

平成四年三月二四日 一三

同月二六日     一七

同月二九日     二九

同月三〇日     一五

(2) CRP(炎症反応)(正常値〇ないし0.5)

平成四年三月二四日 3.5/+2

同月二五日 6.7/+4

同月二六日 3.1/+2

同月二八日 1.2/+1

(3) WBC(白血球数)(正常値3.9ないし10.0)

平成四年三月二四日 18.2

同月二五日     13.8

同月二六日     10.1

(八) 外出状況

文夫は、平成四年二月二四日午後外出したほか、同月二五日、同月二七日、三月二日、同月三日それぞれ外泊した。

(九) 文夫は、膀胱癌及びS状結腸癌の手術後、MRSA感染症(敗血症、肺炎、細菌性心内膜炎)を引き起こし、更に多発性脳梗塞を引き起こし、肺炎とともに重篤な状況に陥って、平成四年五月七日午前一一時一九分、死亡した。直接死因は、肺炎及び脳梗塞であるが、術後のMRSA感染症に罹患したことが大きな原因となっている(甲一、一二、乙一一、一二、証人葛原)。

三  原告らの主張

(被告の責任―診療契約上の義務違反)

1  院内感染防止義務(院内清潔保持義務)違反

医師・看護婦ら医師の職員及び家族、面会者等が細菌感染の源となったり感染経路の一端を担う危険性が高いのであるから、その感染経路を遮断するため、被告には、文夫に細菌が付着しないように院内とりわけ文夫の周辺の清潔を十分に保つ義務がある。しかしながら被告は次のとおり右義務に違反した。

(一) 手術後は、細菌に対する抵抗力が著しく低下しているのであるから、無菌室に隔離する等の措置を講じて細菌感染を未然に防止すべきであるにもかかわらず、被告は本件手術の前後を通じてかかる措置をとらなかった。少なくとも、文夫を本件手術の前後を通じて一般病棟に入院させ、本件手術直後に渡廊下を通って二号棟まで文夫を運んだのは被告の管理義務の欠如である。

(二) 医師・看護婦以外の者の文夫の病室への立入を禁止するか立入方法等についてチェックするとともに、医師・看護婦の手指の消毒、白衣の交換等を徹底すべきであったのに、被告はこれらの措置をとらず、文夫の病室には手洗い桶すら置かれていなかったし、手洗いも励行されていなかった。

文夫のMRSA感染が判明した平成四年四月三日以降も右措置はとられず、そのような診療体制が本件事故を招いたのである。

(三) MRSA感染者が分院内にいたのであるから、右患者が感染源となり新たな水平感染を引き起こさないように十分注意し、右患者を隔離するなどの適切な措置をとるべきであったにもかかわらず、被告はこれらの措置をとらず、右患者が病棟内を自由に歩き回るのを放置した。

(四) 個々の医師・看護婦の問題に止まらず、我が国でも最高水準にある医療機関にふさわしいMRSAの院内感染に対する組織的な診療体制を採るべき注意義務があったにもかかわらず、被告は右義務を怠った。

2  MRSA感染症の早期発見・適切措置義務違反

MRSAの院内感染については、その対策が昭和六〇年頃から厚生省・学会・医療機関等で報告されていた。そして、文夫が易感染状態にあったことは被告において明確に認識されていた。したがって、本件手術後、被告の異常の有無について十分に予後観察をし、平成四年四月一日以前に菌検査を実施して感染の有無を確認すべきであったにもかかわらず、被告はこれを怠り、同日に文夫が発熱したために実施した菌検査まで何ら異常を察知しなかった。

3  MRSA感染症罹患後の適切措置義務違反

被告は、平成四年四月一日の文夫の発熱の時点で以下のような適切な処置をとってMRSA感染症の悪化を防止する注意義務があったのにもかかわらず、これを怠った。

(一) 抗生剤の濫用ないし継続的使用により、菌交代現象が生じて耐性菌が出現することは明らかであるから、菌交代現象が生じないように、あるいは菌交代現象に対処しうるように十分な処置を講ずべき注意義務があったにもかかわらず、被告医師はMRSAが耐性を示すセフェム薬系であるセフォチアムを本件手術後一週間にわたって継続的に用い、しかも、平成四年四月一日の文夫の発熱以降も漫然と再度セフォチアムを投与し、症状を悪化させた。

(二) IVHカテーテルの抜去に当たっては、カテーテル先端に付着した菌塊が大量に血管内に流入するおそれがあるから、予め抗菌薬を投与してから抜去すべきであったのに、被告医師は漫然と抜去し、感染症の悪化を招いた。

4  カテーテルを感染経路とするMRSA感染予防義務違反

本件において、MRSAがIVHカテーテルから文夫の体内に侵入し、これにより文夫がMRSA感染症に罹患したものであって、装着したカテーテルから文夫がMRSAに感染しないようにする注意義務があったところ、被告はこれを怠り、感染を防止するための具体的な回避措置をとらなかった。

なお、MRSAの感染経路が明白でMRSA感染と死亡との間に相当因果関係が認められる本件においては、①院内感染、医原性の死亡事故であり全ての事柄が医療機関の内部事項に属するものであること、②被告の証拠への近さ等の面からしても、被告のIVHカテーテルの管理における清潔保持義務を尽くしたことについて被告の側で相当程度の立証をしない限り、被告は過失責任を免れないというべきである。

(一)(挿入時感染予防義務)文夫は、①長期にわたり抗菌薬の投与を受け、②消化器手術を受けた基礎疾患を有する長期入院患者であり、易感染性患者であった。加えて、IVHカテーテルは皮膚バリアーの破綻や血管内異物が加わるものであるから、IVHカテーテルの挿入によりMRSA感染とりわけ敗血症の危険があった。したがって、IVHカテーテル挿入時において、菌感染を防止するための人的・物的な清潔義務を尽くすべき注意義務があり、無菌室を使用し、カテーテルの材質についても配慮すべきであったにもかかわらず、被告はこれを怠った。

(二)(挿入部管理義務)IVHカテーテルは平成四年三月二三日から同年四月二日まで長期使用されているが、IVHカテーテルのMRSA感染源としての高度の危険性に鑑みれば、IVHカテーテル挿入部を消毒すべきであったにもかかわらず、被告はこれを怠り挿入部の消毒を実施しなかった。

(三)(輸液管理等義務)輸液・フィルター・三方活栓等は医療従事者の汚染された手により、あるいは回路の連結部からの汚染により、MRSA感染の原因となる。その取り扱いにあたって、看護婦は手指の消毒、ガウンテクニック(ガウンの着用)等をすべきであったにもかかわらず、被告はこれを怠り、MRSA感染症罹患後に看護プランとされたにすぎない。平成四年三月二九日に洗髪がなされているが、IVHカテーテル着用のままであり、細菌感染を招いた。

また、被告の院内感染対策にはIVHカテーテルについての危険性が一切盛り込まれていないが、これは医療水準に従った医療行為の実施という前提を明らかに無視したものであり、この点においても被告には過失がある。

(四)(3(二)とほぼ同じ)IVHカテーテル抜去時には、カテーテル先端に付着増殖した菌塊が血管内に流入して敗血症をもたらす危険があるから、予め血液培養を施行し、抗菌薬を投与すべきであったにもかかわらず、被告はこれを怠った。

5  病状管理義務違反

血液検査(赤沈、CRP、WBCいずれも正常値を上回っていた。)に現れた感染症の予兆から、文夫のMRSA感染が容易に予期できたはずであったのに、被告は漫然とこれを見逃し、菌検査等を怠り、文夫の死を招いた。

6  説明義務違反

MRSA感染原因、感染経路につき説明義務があるのに、被告はこれを怠った。

四  被告の主張

(被告の責任についての反論)

1 院内感染防止義務(院内清潔保持義務)違反

(一) 文夫の手術については、術後に無菌室を使用する必要がなかった。すなわち、無菌室を使用すべきなのは骨髄移植患者等に限られ、本件では右義務はなかった。

(二) MRSA感染が判明するまでは面会制限等の特別の配慮は必要ない。

(三) 文夫が入院した時点で、二号棟は病棟自体がMRSAの感染源から隔離されていた。MRSA患者は一号棟におり、隔離され、ガウンテクニックがされ、手洗いを励行していた。

(四) 被告病院では院内感染対策委員会のもとで、MRSAへの対策に取り組んできている。①古川医師の講演、②MRSA院内感染防止対策基準、③マニュアルの配付等をしていた。

MRSA陽性患者と文夫担当の看護婦との分離態勢、看護婦の手指の消毒態勢、水平感染防止のための患者の隔離態勢を整えていた。

2 MRSA感染症の早期発見・適切措置義務違反

検査による経過観察(平成四年四月二四、二五、二六、二八、三〇日にそれぞれ実施)によっても感染症を疑わせる所見は認められなかった。

3 MRSA感染症罹患後の適切措置義務違反

(一) 被告は、MRSAの感染が確認された時点(感受性の判定まで三、四日かかる。)で直ちにセフォチアムの投与を中止した。

(二) また、カテーテルの抜去は、感染症も考えられる場合の原則であり、適切な措置である。また、カテーテル抜去がMRSA感染症悪化の原因ではない。

4 IVHカテーテルを感染経路とするMRSA感染予防義務違反

本件でのMRSAの感染経路は不明であって、IVHカテーテルを感染経路と認めることはできない。

(一) カテーテル挿入時において、手術室で無菌室を使用し、材質についてもポリウレタンを用い配慮していた。方法は静脈穿刺法で実施した。

(二) カテーテル挿入部は、毎日観察し、適宜包交し、少なくとも週一回は挿入部を消毒し包交した。平成四年三月三〇日、挿入部の消毒とライン交換をしたが、その際も異常は認められなかった。

ライン交換はカテーテルの箇所では行っておらず、その際も挿入部に異常は認められなかった。

(三) 高カロリー輸液、フィルター、三方活栓等の取り扱いにあたって、看護婦は手指の消毒、ガウンテクニック等をした。高カロリー輸液の注入には、ハイカリックバックを使用した。

(四) カテーテル抜去については、3(二)のとおりである。

5 病状管理義務違反

検査結果の数値は感染症の予兆ではない。手術後日を追って正常値に戻っていた。

6 説明義務違反

事後の納得のための説明義務は存しない。また、説明は尽くした。

五  争点

文夫が分院入院中にMRSA感染症に罹患し、死亡した点について、被告に診療契約上の債務不履行があるか。

第三  争点に対する判断

一  証拠(甲四、五、九、一〇、一六、乙三、四の1ないし4、五の1、2、六の1、2、七の1、2、八の1ないし3、九の1ないし4、一〇の1ないし4、一五、一六、証人葛原敬八郎、同宗村美江子、同橋本末子、同後藤優子)によれば、次の事実が認められる。

1  MRSA

MRSAとはメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(Methicillin-Resistant Sta-phylococcus Aureus)の略称である。MRSAは、メチシリン(ペニシリンに耐性化した黄色ブドウ球菌に効力を有する抗菌薬として最初に開発された耐性ブドウ球菌用ペニシリン)のみならず、広くβ―ラクタム剤と呼称される抗菌薬(ペニシリン系、セフェム系、モノバクタム系、カルバペネム系)のほとんどのものに耐性(抵抗性)を示す(多剤耐性)黄色ブドウ球菌である。MRSAは通常の黄色ブドウ球菌に比べて毒性が強いわけではないが、深部に選択的に増殖すれば毒性が増幅し重篤な病態を引き起こす。

黄色ブドウ球菌自体は、ヒトの咽頭、副鼻腔、皮膚等で検出される常在菌であるが、MRSAの健常人に対する感染性は低く、長期間抗生剤の投与を受けている患者等の場合に感染する。現在臨床において利用されている抗菌薬のほとんどが前記β―ラクタム剤であって、しかもMRSAに対する有効な抗生剤が現状では少ないため、MRSA感染症が問題となってきている。

MRSAは深部に感染した場合特に対処が困難である。

MRSAはメチシリンが開発された翌年の一九六一年に英国で報告され、一九七〇年代には欧州や米国で院内感染の原因菌として問題とされるようになり、我が国でも一九八〇年代初めからMRSAの検出率が急激に増加し、院内感染の事例も増加し、社会問題となっている。

院内感染とは、医療施設における入院患者が原疾患とは別に新たに罹患した感染症をいう。院内感染における感染源としては微生物を保有しこれをヒトに伝播する感染発症者、保菌者、汚染された器具・機械等が考えられる。近年、入院患者の高齢化、免疫抑制剤の頻繁な使用、侵襲の大きい医療の導入等のために易感染性患者が増加し、院内感染対策の重要性が増大している。

MRSAに感染しやすい患者(易感染性患者)としては次のような者が挙げられる。すなわち、①高齢患者、特に寝たきりの高齢患者、②免疫不全状態にある患者、③抗生物質の長期投与患者、④侵襲が大きく長時間を要する手術患者、⑤IVH施行患者、⑥気管内挿管等による長期呼吸管理患者、⑦未熟児・新生児、⑧広範囲の熱傷・外傷患者である。

MRSAの感染から発症までの潜伏期間については、数時間という見解から三日から一週間あたりという見解まであり、定説が確立されていない状況にある。

MRSA感染症に対する抗菌剤療法としては、MRSAに対し抗菌力を持ち副作用が少ない薬物を選択することが重要であるとされている。この点で、β―ラクタム剤が使用しやすいが、現在市販されているβ―ラクタム剤に対しMRSAは耐性が進んでいるという欠点がある。そこで、その他の抗菌薬(バンコマイシン等)を利用する例もあるが、MRSAが耐性を獲得しつつあるなどの理由から決定的治療方法として確立されたものには至っていない。

2  院内感染対策

MRSAの院内感染は近時医療現場で重要な問題となっている。

平成四年三月六日、厚生省は「院内感染防止マニュアル」を作成した。

ところで、平成四年四月当時において、院内感染予防の決定的な対策はまだ確立していない状況にあったということができる。ただ、医療従事者の手指は感染源に容易に接触することができ、伝播媒体となることから、医療従事者の手洗いが、院内感染防止の基本的かつ有効な方法であるという点は一般的に認められていた。

被告は、平成二年六月一八日、MRSA感染症の治療及び院内感染対策に関する講演会を開催した(乙三)。

被告は、院内感染対策委員会MRSA小委員会を設置した(乙四の1、2、五の1、2、六の1、2、七の1、2、八の1ないし3、九の1ないし4)。

平成三年二月、「MRSA院内感染防止対策基準」案が院内対策委員長から部長会議に提示され、討議の結果、同年三月一日から同基準を病院全体のマニュアルとすることが決定され、院内の各部、各病棟に院内通報として配付されて周知徹底された(乙一〇の1ない4)。また、院内には「虎の門病院看護マニュアル」があり、ナースステーションに備えつけられていたが、その一項目に「IVH」に関するものがある(甲一三)。基本的看護マニュアル(乙一三号証はその一部)については看護婦に対しテストが実施された。さらに、本件以降、「分院でのMRSA取り扱いマニュアル」(乙一五)が作成された。

「メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(methicillin-resistant staphylococ-cus aureus:MRSA)院内感染防止対策」と題する冊子(以下、「MRSA院内感染防止対策」という。)(乙一〇の2)には、次のような記載がある。すなわち、感染が判明したら、①隔離とすること、②医療器具をできるだけ専用とすること、③洗面台を整えることを要求し、注意事項としては、医療従事者の手を介しての伝播が最も多いので手洗いを厳守し、適宜マスク・ガウン・帽子を使用し、特に退室時に手洗いを確実に行うことが挙げられている。

3  IVHカテーテル

IVH(intravenous hyperalimenta tion・経中心静脈高カロリー輸液)とは、口・腸を通して栄養補給することができない患者に対し、中心静脈を経て高カロリーの輸液を送る方法をいう。輸液を送るルートとしては、輸液セット・チューブ・三方活栓・フィルター・チューブ・カテーテルの順序である。

IVHカテーテルが利用される場合、対象が易感染性患者であるばかりか皮膚バリヤーの破綻や血管内異物が加わるので感染の危険があるとされている。

また、IVHカテーテルを血管内に留置する例が増加したことを主たる原因として、血液からのMRSAの検出例(菌血症)が増加している。菌血症の多くは悪寒戦標とともに始まる。かかる場合にはカテーテルを抜去することが必要であるが、カテーテルの先端に付着した菌塊がさらに血管内に流出しないように注意する必要があるとされている(以下、甲五、九、乙一三)。

こうした状況を受けて、被告病院では前述のようにIVHに関する看護マニュアルを作成していた(乙一三)。

右看護マニュアルの内容は次のとおりである。すなわち、右マニュアルには、IVHに関し、①穿刺の準備と介助、②薬液の準備と実施、③実施中の管理といった場面ごとの実際上の注意点などが記載されている。このうち、②では薬剤のカクテル、輸液、輸液ラインの準備において無菌的操作を心掛け注意して行うこととされ、具体的に、輸液バックの交換方法(二四時間持続する輸液の交換は日勤帯で一五時に行うこと、清潔に点滴セットに刺し込むこと等)、ライン交換の方法(原則的に週一回行うこと、交換するラインは輸液セット・エクステンションチューブ・三方活栓・フィルターであり、カテーテルに接続されたエクステンションチューブは一本残し新しいラインと交換すること等)、刺入部の管理方法(刺入部の包交は週一回施行すること、包交の方法は刺入部を一パーセントクロルヘキシジンスイで消毒し固定すること、刺入部は毎日観察し絆創膏が剥がれたりしていたら適宜包交すること等)等について注意事項が記載されている。そして、看護婦に対してはテストを実施し、周知徹底している(証人橋本)。

平成四年四月七日、文夫において経口摂取が不可能であるためIVHカテーテルを再度挿入し留置したが、IVHの管理等は各病棟に備えつけられている右看護マニュアルに沿ってなされていた(乙二、一二、証人宗村)。

4  本件当時の医療水準

平成四年三月ころ当時のMRSAの院内感染防止の医療水準は次のとおりである。

すなわち、①医療機関単位でMRSAの院内感染対策の専門機関が設置されたりして調査・防止対策が施されていたが、完全に防止するまでには至っておらず、②MRSAに対する特効薬も開発されておらず、③いくつかの医療機関において、成果を挙げた院内感染対策の事例が報告されていたが、未だ一般的承認を受けるまでには至っていなかった。

また、当時の被告病院における医療の状況は次のとおりである。

すなわち、①全患者、医療関係者全員のMRSA菌保有の有無の検査は不可能であった、②人命救助を目的として各種高度医療行為(長期カテーテル留置、長期食止め、抗癌剤大量投与、抗生剤長期投与)が施行されておりその結果としてMRSA感染を誘発している現実があった、③病状によりMRSA感染患者の入院治療も避けられない状態にあった、④人的、経済的事情からMRSA患者のみを専門的に治療、看護する体制が確立されていなかった、⑤病院内の完全な空気浄化、清掃、殺菌等については経済的事情から実施されていなかった(以上、甲一六、乙一六)。

二  治療経過等

1  文夫は易感染性(抵抗力が低く感染しやすい)患者か

前記認定の治療経過及び証人葛原の証言によると、①本件手術後経口の栄養補給ができなかったこと、②二月二四日からの長期間の入院であったこと、③マイトマイシン、キロサイトといった抗癌剤の投与を(大量に)受けていたこと、④本件手術前に食事制限があったこと(三月一〇日から一六日)、⑤入院から本件手術まで日数が経っていること(当初の手術予定日は三月九日)、⑥本件手術後抗生剤の投与を受けていること(三月二三日から二九日までセフォチアムの投与)が認められ、以上によると、文夫は易感染性患者であったというべきである。

2  二号病棟は清潔か

前記のとおり(第二、二3(三))、文夫は入院当初一号棟に入院していたが、三月一八日以降、二号棟に移転した。

二号棟については、新築の建物であるので、過去に入院患者がなかったことからすると、比較的清潔であったといえる。

ただ、エアコンの調子が良くないといった問題はあった(甲一五、乙二・四四二頁)。

また、部屋の清潔度に関しては、培養検査がなされていたが全部屋についてはなされていなかったし、また、医師・看護婦のMRSA保菌の検査は少なくとも二号棟三階ではなされていなかった(証人橋本、これに反する証人後藤の証言は検査がされた時期についての記憶が曖昧であって信用できない。)。

3  一号病棟のMRSA患者について

MRSA患者がいたことは被告もこれを認めている。この患者の扱いについての直接の証拠は少なく、被告病院では、少なくともMRSA患者と判明した者については、ほぼマニュアルに沿って水平感染を防止すべく措置を取っていたと推認される。

なお、右患者が一号棟一階のテレビ室でテレビを見ており四階から一階まで自由に行き来していたとの原告芙枝子の供述、被告病院である患者が院内感染で死亡し、その際の被告側の対応が杜撰であったとの原告芙枝子、同衿子の供述は、いずれも伝聞であって具体性に乏しく直ちに採用することはできない。

4  IVHカテーテル挿入時(平成四年三月二三日)の状況

IVHカテーテル挿入は、本件手術直前に手術室で行われたが、①医師(麻酔科)・看護婦は、手術時と同様に術衣、帽子、マスク、ゴム手袋を着用し、②部屋は清潔で、③皮膚の消毒をして滅菌処理した使い捨てのカテーテルを使用した(乙一二、証人葛原)。

この点、IVHカテーテル挿入時において菌感染の原因となる不適切な措置がなされたことを認めるに足りる証拠はない。

5  手術(平成四年三月二三日)後、MRSA感染症罹患が判明する(平成四年四月三日)前の看護状況

証拠(乙二、証人葛原、同宗村、同橋本、同後藤)によれば、次の各事実が認められる。

(一) 手術後文夫は直接病室に戻っており、手術後回復室に行っていない。

(二) 被告は、IVHカテーテルの輸液バックを毎日交換し、残量を適宜観察記録し、平成四年三月二八日にはIVHカテーテル挿入部の包交を行い、同月三〇日にはライン交換をした(その際、挿入部に特段異常な点はなかった。)。

(三) 後藤、北林らの看護婦は他のMRSA患者が一号棟にいた頃から、文夫を看護していたが、この時期は手指の消毒用の消毒液が病室の外に置かれておらず、ガウンの着用もなかった。三月二九日の文夫の洗髪の際もIVHカテーテルは着用したままであった。三月二六日、IVHカテーテルのルートが途中で外れ血液が逆流したこともあった。

(四) 三月二六日の血液逆流の際、担当看護婦は後藤優子であるところ、後藤は、逆流後、五分くらいでこれを発見したが、文夫の浴衣が血に染まったこともあった。

さらに三月二八日には包交が剥がれかかった。

病室に行く際に看護婦は、おおむねナースステーションで手洗いをしていた。

(五) そうすると、MRSA感染が判明するまでは、医師も看護婦も感染症を疑う具体的兆候がなかったところから、これについて特段配慮していた様子は窺われない(葛原医師はこれまでに患者が感染症になるのを体験したことがない。)。ただし、IVHカテーテルの扱いについては前記のマニュアル(乙一三)にほぼ沿った看護がなされていた。

6  MRSA感染症罹患が判明した後の看護状況

証拠(乙二、証人葛原、同宗村、同橋本、同後藤、原告芙枝子、同衿子)によれば、以下の事実が認められる。

(一) MRSA感染症罹患判明直後は隔離は取られていなかったが下痢が頻繁であることなどから、平成四年四月七日から文夫の病室が隔離体制になり、病室の外にガウン、マスクを置き、出入りする人全てがガウン着用、マスク着用をすることになり、実施された。なお、病室の入口に粘着マットは設置されていなかった。

(二) 同年四月一日から移った二号棟三五二号室の正面にナースステーションがあった。ナースステーションに入口の所にアルコールの洗浄容器が置いてあり、これが医師・看護婦の手洗いに利用されていた(もっとも、IVHカテーテルの輸液交換等のためナースコールを受けた際、急ぐ関係から手洗いを十分にしないまま病室に入ることもあったことが窺われる。)。

(三) 病室内の洗面台には石けんがおいてあって、医師・看護婦は、退室時にそこで手洗いをしていた。

7  本件MRSAの感染経路

感染経路については、①IVHカテーテルの先でMRSAが発見されたこと(カテーテル先を培養したところMRSAが検出されたこと)、②当時、葛原医師自身もカテーテルからの感染の可能性が高いことを認めていたこと(乙二・二七、四四四、五一一頁、乙一二)、③証人葛原は、MRSAが体内にあったか、IVHカテーテルからの感染かどちらか以外には考えられないと証言していること、④他に感染経路を窺わせるものがないこと、からすると、感染経路はIVHカテーテルである可能性が最も強いということができる。さらに、具体的な細菌の感染経過についてはこれを認めるに足りる証拠がない。

8  抗生剤投与の種類、量

抗生剤投与の種類、量については、前記のとおりである(第二、二3(四)(六))。抗生剤の投与方法については、(感染症罹患が判明するまでは)葛原医師が消化器科外科沢田医師と相談の上で選択施行した。手術後の感染予防として抗生剤を使用する期間としては三日程度が適切であるとされているが、本件では腸の手術もあり完全な無菌手術が困難であるとの事情を考慮し、消化器科外科の要請で、手術後七日間抗生剤を投与した。

三  義務違反についての判断

1 院内感染防止義務(院内清潔保持義務)違反

原告らは、医師・看護婦ら医院の職員及び家族、面会者等が細菌感染の源となったり感染経路の一端を担う危険性が高いのであるから、その感染経路を遮断するため、被告には、文夫に細菌が付着しないように院内とりわけ文夫の周辺の清潔を十分に保つ義務があると主張する。一般的には、かかる義務があるというべきであるが、義務違反とMRSA感染症罹患及びそれによる死亡結果との間に相当因果関係が必要であることはいうまでもない。

以下、個別に検討する。

(一) 原告らは、手術後は、細菌に対する抵抗力が著しく低下しているのであるから、無菌室に隔離する等の措置を講じて細菌感染を未然に防止すべきであるにもかかわらず、被告は本件手術の前後を通じてかかる措置をとらなかったと主張する。

しかし、手術後であるが故に無菌室に隔離すべき義務があるとまではいえないというべきである。

(二) 原告らは、医師・看護婦以外の者の文夫の病室への立入を禁止するか立入方法等についてチェックするとともに、医師・看護婦の手指の消毒、白衣の交換等を徹底すべきであったのに、被告はこれらの措置をとらなかったと主張する。

しかしながら、右各措置をとらなかったとしても、これが感染の直接原因であることを認めるに足りる証拠がない。

(三) 原告らは、MRSA感染者が分院内にいたのであるから、右患者が感染源となり新たな水平感染を引き起こさないように十分注意し、右患者を隔離するなどの適切な措置をとるべきであったにもかかわらず、被告はこれらの措置をとらず、右患者が病棟内を自由に歩き回るのを放置したと主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、右患者について適切な措置を取っていなかったことを認めるに足りる証拠がない。

(四) 原告らは、個々の医師・看護婦の問題に止まらず、我が国でも最高水準にある医療機関にふさわしいMRSAの院内感染に対する組織的な診療体制を採るべき注意義務があったにもかかわらず、被告は右義務を怠ったと主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、被告はマニュアルを作るなどして、院内感染に対する対策を取っていたことが認められる。

(五) 以上によると、原告らの主張はいずれも理由がない。

2 MRSA感染症の早期発見・適切措置義務違反

原告らは、MRSAの院内感染については、その対策が昭和六〇年頃から厚生省・学会・医療機関等で報告されており、また、文夫が易感染状態にあったことは被告において明確に認識されていたのであるから、本件手術後、被告の異常の有無について十分に予後観察をし、平成四年四月一日以前に菌検査を実施して感染の有無を確認すべきであったにもかかわらず、被告はこれを怠ったと主張する。

しかし、感染を疑わせる具体的な兆候がなかった以上、右予後観察義務は尽くされていたというべきであり、また、さらに菌検査をすべき義務はなかったというべきである。また、感染の発見が遅れたことを認めるに足りる証拠はない。

3 MRSA感染症罹患後の適切措置義務違反

原告らは、平成四年四月一日の文夫の発熱の時点で以下のような適切な処置をとってMRSA感染症の悪化を防止する注意義務があったのにもかかわらず、これを怠ったと主張するが、以下説示するように、感染症罹患後の措置について義務違反を認めるに足りる証拠はない。

(一) 原告らは、抗生剤の濫用ないし継続的使用により、菌交代現象が生じて耐性菌が出現することは明らかであるから、菌交代現象が生じないように、あるいは菌交代現象に対処しうるように十分な処置を講ずべき注意義務があったにもかかわらず、被告医師はMRSAが耐性を示すセフェム薬系であるセフォチアムを本件手術後一週間にわたって継続的に用い、しかも、平成四年四月一日の文夫の発熱以降も漫然と再度セフォチアムを投与し、症状を悪化させたと主張する。

しかしながら、セフォチアムの長期使用がなされたことは前記認定のとおりであるが、セフォチアムの使用が感染の直接的原因になったことを認めるに足りる証拠はない。

(二) 原告らは、IVHカテーテルの抜去に当たってはカテーテル先端に付着した菌塊が大量に血管内に流入するおそれがあるから予め抗菌薬を投与してから抜去すべきであったのに、被告医師は漫然と抜去し感染症の悪化を招いたと主張する。

しかし、IVHカテーテルの抜去が感染症悪化の原因となったことを認めるに足りる証拠はない。

4 カテーテルを感染経路とするMRSA感染予防義務違反

原告らは、MRSAがIVHカテーテルから文夫の体内に侵入し、これにより文夫がMRSA感染症に罹患したものであって、装着したカテーテルから文夫がMRSAに感染しないようにする注意義務があったところ、被告はこれを怠り、感染を防止するための具体的な回避措置をとらなかったと主張する。確かに、MRSAがIVHカテーテルから感染した可能性が最も強いことは前記認定のとおりであるが、次に説示するようにそれが被告の義務違反によってもたらされたものではないというべきである。

なおこの点、原告らは、MRSAの感染経路が明白でMRSA感染と死亡との間に相当因果関係が認められる本件においては、被告のIVHカテーテルの管理における清潔保持義務を尽くしたことについて被告の側で相当程度の立証をしない限り、被告は過失責任を免れないというべきであると主張するが、本件当時の医療水準(①潜伏期間などMRSA感染症についての医学的解明すら完全ではなく、また②常在菌であるために感染経路を全て断ち切ることは容易でなく、抗生剤投与・カテーテル利用も避けることができず、結局のところ決定的防止対策がない状況にあった。)等に照らし、前記認定の本件事実関係の下では採用することができない。

(一)(挿入時感染予防義務)原告らは、文夫が①長期にわたり抗菌薬の投与を受け②消化器手術を受けた基礎疾患を有する長期入院患者であり、易感染性患者であって、加えてIVHカテーテルは皮膚バリアーの破綻や血管内異物が加わるものであるから、IVHカテーテルの挿入によりMRSA感染とりわけ敗血症の危険があったので、IVHカテーテル挿入時において、菌感染を防止するための人的・物的な清潔義務を尽くすべき注意義務があり、無菌室を使用し、カテーテルの材質についても配慮すべきであったにもかかわらず、被告はこれを怠ったと主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、IVHカテーテル挿入はマニュアルに従ってされており、菌感染の原因となる不適切な措置がなされたことを認めるに足りる証拠がない。

(二)(挿入部管理義務)原告らは、IVHカテーテルは平成四年三月二三日から同年四月二日まで長期使用されているが、IVHカテーテルのMRSA感染源としての高度の危険性に鑑みれば、IVHカテーテル挿入部を消毒すべきであったにもかかわらず、被告はこれを怠り挿入部の消毒を実施しなかったと主張する。

しかしながら、挿入部の消毒等が実施されていたことは前記認定のとおりであるから、この点において原告らの主張は理由がない。

(三) (輸液管理等義務)原告らは、輸液・フィルター・三方活栓等は医療従事者の汚染された手により、あるいは回路の連結部からの汚染により、MRSA感染の原因となるので、その取り扱いにあたって、看護婦は手指の消毒、ガウンテクニック(ガウンの着用)等をすべきであったにもかかわらず、被告はこれを怠り、MRSA感染症罹患後に看護プランとされたにすぎず、平成四年三月二九日に洗髪がなされているが、IVHカテーテル着用のままであり、細菌感染を招いたと主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、ガウンの着用がなかったこと、洗髪の際IVHカテーテルを着用したこと、その他、三月二六日に血液が逆流したこと、三月二八日に包交が剥がれかかったこと等の事実が認められるが、いずれの点についても、MRSAの感染との間の相当因果関係を認めるに足りる証拠がなく、結局のところ被告の義務違反によるMRSA感染を示す証拠がない(この点、被告の支配管理する病院内でMRSA感染の結果が生じた以上は被告の義務違反が事実上推定されるとか、立証責任が転換されるとの見解は採用しない。)。

また、原告らは、被告の院内感染対策にはIVHカテーテルについての危険性が一切盛り込まれていない点においても被告は過失があると主張するが、IVHに関する看護マニュアルがあったこと(乙一三)は前記認定のとおりであり、原告らの主張は理由がない。

(四)(3(二)とほぼ同じ)原告らは、IVHカテーテル抜去時には、カテーテル先端に付着増殖した菌塊が血管内に流入して敗血症をもたらす危険があるから、予め血液培養を施行し、抗菌薬を投与すべきであったにもかかわらず、被告はこれを怠ったと主張するが、3の(二)で説示したと同様、この点についての原告らの主張は理由がない。

5 病状管理義務違反

原告らは、血液検査(赤沈、CRP、WBCいずれも正常値を上回っていた。)に現れた感染症の予兆から、文夫のMRSA感染が容易に予期できたはずであったのに、被告は漫然とこれを見逃し、菌検査等を怠り、文夫の死を招いたと主張する。

しかしながら、本件手術後、吸収熱のために白血球数が増えたり(WBC)、炎症反応が出たりした(CRP)ものの、四月一日までは、次第に改善方向に向かってきており、右数値から感染症罹患を予見することはできなかった(病状管理義務違反はなかった)というべきであり、この点についての原告らの主張は理由がない。

6 説明義務違反

原告らは、MRSA感染原因、感染経路につき説明義務があるのに被告はこれを怠ったと主張するが、仮に右義務違反があるとしても文夫の死亡という結果との関係で相当因果関係を認めることができないから、原告らの主張は失当である。

四  以上によれば、原告らの請求はいずれも理由がないから、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官佐藤康 裁判官稻葉重子 裁判官山地修)

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